文章を書けない理由
昔から人前で発表する文章を書くのが遅く、苦労していました。
昨年、ようやく仕上げた論文も足掛け3年かかり、我ながら情けなくなりました。
いわゆる「文章の書き方」本を漁ってきましたが、「ライティングの哲学」(千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太)を読んで、ようやく納得がいきました。
最も納得がいったのは山内さんの言葉で、問題は
・「もっともっと」と要求する「幼児性」を手放すことができない・・移行対象をいじり続けようとしてしまう・・(〆切直前に急に書けるときは)今回はこれだけしかできないという限定的な形が明確に見えてくる・・その「諦め」をどれだけ前に持ってこられるか(p79)
・現在の自分には扱えない水準を扱おうという欲望なんだと思う(p84)
であり、それを回避するには
・キリのない神経症的操作を回避する・・文章相互の整合性にとらわれ続ける際限ない神経症的操作に入らないようにする(p164)
ことが必要だということです。
読書猿さんの「覚悟」の言葉も刺さりました。
・書き手として立つことは、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けるところから始まる・・・有限の時間と能力しかもたない我々が・・・自分に対する義務を果たそうという決断である(p137)
つまり、「自分はすばらしい成果を世に出せるはずだ」という妄執にとらわれ、そうでない自分から目を逸らすために細部をいじり続けて時間を浪費する、その根には肥大化した自意識と表裏の関係にある劣等感がある、ということです。
これについては、四人の筆者(どうみても多作な千葉さんを含む)が賛同しており、物書きに共通する悩みであるようです。
この本では解決策も話し合われています。
〆切が最も有効な有限化の枠組みであり、それ以外には、さまざまなツールによる思考の外部化、特にアウトライン・プロセッサー(パワポのように箇条書きと階層構造を作る)の活用が有効なようです。千葉さんは自由連想に準ずる方法としてフリーライティングを紹介し、次のように述べています:
・精神分析は他者がいるということが大事で、それに対してぼくはツールとノートとか筆記用具を準-他者と呼んでいるんですが、これは「偽精神分析」なんですよ。・・オーセンティックな精神分析がいうところの本物の他者というものを、準-他者的なものに回収できないか、そう考えたいくらいなんですよ((p111-112)
私も去年の論文書きではパワポでプロットを作ったり、ワードのアウトライン機能を活用したりしたので、これらの議論が心底理解できました。
ただ、ワードに書いてしまうと、それに引きずられて筆が止まり、捨てるのも勿体なくなったりするので、
・真っ白なWordファイルに素手で挑まない(p154)
のが大事なようです。
自分の小ささを受け入れることができれば、より大きなことができるかもしれない、というパラドックスに気づくことができた良書でした。
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